ブリュッセルからカブールへ: 想像もしなかった国連への道のり

好奇心旺盛な法学生が、紛争からの復興、ジェンダー平等、そして強靭で包摂的な開発を牽引するUNDP職員に。マッセイ裕子さんのこれまでの歩みに迫ります。

2026年1月27日
Group of students in white hijabs seated in a blue-walled classroom; a teacher stands at the back.

アフガニスタン・カンダハール州の学校を訪問するマッセイ裕子さん 

Photo: UNDP Afghanistan

私が多国間主義の世界へと足を踏み入れたのは、まだ大学生で、ヨーロッパを旅していた頃でした。日本で法学を学んでいましたが、夏にヨーロッパ各地を巡るキャンプ旅行に出かけたことが、私の将来を形づくる一つの問いを芽生えさせました。かつて戦争を交えていた国々が、どのようにして共通の通貨や議会、そして共通の未来を共有できるようになったのか。こうした経験は、他の地域にも応用できるのだろうか。バスで国境を越え、一晩で言語や文化が変わっていく様子を目の当たりにしたことは、私を強く魅了し、グローバルなキャリアへとつながる種を心に植え付けたのです。

帰国後、英国ダラム大学への交換留学制度に応募し、欧州統合についての研究に没頭しました。スーツケース一つを手に、往復6か月の航空券でブリュッセルへと旅立ちました。現地では欧州商工会議所や欧州委員会報道官室での研修生を経て、日本・EU友好議員連盟に所属する欧州議会議員を支えるジュニア・スタッフの職を得ることができました。今でも鮮明に覚えているのは、アポイントメントもないまま欧州議会に乗り込み、名前が英語風だという理由だけで、自分から声をかけて自己紹介をしたことです。その大胆な行動が、フォード議員(当時)からの「日欧関係についての著書の執筆を手伝って欲しい」という予期せぬオファーへと繋がりました。この経験から私は、「自ら動くことが扉を開く」という大切な教訓を、キャリアの早い段階で学んだのです。

Photograph of a person in blue holding a sign that reads PARTNERSHIPS FOR THE GOALS in a hallway.

アフガニスタン特別信託基金(STFA)のファンドマネジャーとして勤務するマッセイさん

Photo: UNDP Afghanistan

国連で働く自分を想像したことは、一度もありませんでした。そんな私の人生が大きく動き出したのは、1999年の夏にシリア、レバノン、ヨルダンを旅していた時のことでした。当時、UNDPのJPO( Junior Professional Officer )として働いていた友人の紹介で、ブリュッセル駐在の職員を含む数名の国連関係者と出会いました。その会話が、ある考えの種を心に植え付けたのです。日本が発言力を持つ多国間機関で働きたい。その答えが国連でした。数か月後、家族の緊急事態でニューヨークに滞在していた際、スハルト政権崩壊後初となるインドネシアの民主的選挙をCNNが報じているのを目にしました。その歴史的な瞬間におけるUNDPの役割を知り、私は「これだ」と感じました。それは、私がずっと待ち望んでいた呼びかけだったのです。ほどなくして、私は最初の国連任務として、選挙支援センター(Elections Facilitation Center)の設立を支援するため、ジャカルタ行きの飛行機に乗りました。明確な道筋があったわけではありません。ただ、強い決意があっただけです。このセンターは大きな成功を収め、アリ・アラタス インドネシア共和国外務大臣(当時)が視察に訪れるほど注目を集めました。この成功が私に自信を与え、次の章への扉を開いてくれたのです。

その後、危機直後の極めて重要な時期に、UNDPの現地での取り組みを支援するため、東ティモールでの短期任務に就きました。日本の大規模な政府代表団の訪問準備に奔走するとともに、UNDPに対する1億ドル(約150億円)規模の無償資金協力の獲得に向け、重要な役割を担うことになったのです。

JPOとしての経験:  適応力から学んだこと

インドネシアでの任務中、私は外務省が実施しているJPO派遣制度に合格することができました。その後、UNDPのニューヨーク本部に派遣され、アジア太平洋局(RBAP)の東ティモール担当デスク・オフィサーに着任しました。私はUNDP本部からポートフォリオ管理を通じ、東ティモールの発展のために尽力し続けました。この時期、最も感慨深く、今も鮮明に記憶に刻まれているのは、関係機関が結集して進めてきた支援が実を結び、東ティモールが「独立」という歴史的瞬間を迎えたことです。ニューヨークの国連本部で、新しく誕生した東ティモールの国旗が掲揚された日の光景は、決して忘れることはできません。独立記念式典から1年後、アジア太平洋局を訪問されたカイ・ララ・シャナナ・グスマン東ティモール民主共和国大統領(当時)は、私を抱きしめ、こう言葉をかけてくださいました。 「私の国のために尽くしてくれた、あなたのすべての活動に感謝します。」その温かなしぐさに、数年間にわたる私のすべての努力が凝縮されており、この仕事が持つ真の意味を、改めて確信させてくれました。

Smiling woman in a red cardigan stands in a flag-filled plaza with city buildings behind.

2002年9月、ニューヨークの国連本部で東ティモールの国旗が初めて掲揚される瞬間を目の当たりにしたことは、私にとって最も誇らしい瞬間でした。

Photo: Hiroko Massey

 

その後、私の担当領域はモンゴルや朝鮮民主主義人民共和国へと拡大しました。本部でのこの時期は、UNDPの活動をマクロな視点から捉える貴重な機会となりました。戦略的調整や資金動員に携わるとともに、本部のアフガニスタンやイラクのタスクフォースとの連携を通じて、紛争後の他地域における支援のあり方を体系的に学ぶことができたのです。

当時は知る由もありませんでしたが、この時期に培った知見と経験こそが、私のキャリアにおいて最も過酷な一章となるアフガニスタンでの任務に向けた備えとなったのでした。

アフガニスタン:紛争後支援の最前線へ

東ティモールでの経験から、再び紛争後地域の支援現場に戻りたいと強く思うようになりました。JPOとしての3年目を迎えていたある日、当時のRBAP副局長から、アフガニスタン最大規模の武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)プログラムの現場を視察しないかと声をかけられました。「アフガニスタンの新しい始まり(Afghanistan’s New Beginnings: ANBP)」と名付けられたそのプロジェクトは、文字通り国の再建を目指す象徴的なプロジェクトでした。私は一瞬の迷いもなく、同行を決意しました。現地に到着すると、ドナーへの報告業務を管理する責任者を探していることを知らされました。私は、現地に留まってその挑戦を真正面から引き受けることにしました。

A person stands in a dusty field with green military vehicles and distant snow-capped mountains.

アフガニスタン武装解除プログラムの現場任務にて

Photo: UNDP Afghanistan

カブールでの生活は、常に緊張感と隣り合わせの過酷なものでしたが、同時に不思議な連帯感に包まれていました。国際職員の多くが同じゲストハウスで生活を共にしていたため、常駐代表をはじめとする同僚らと、日常的に会話を交わしていました。ある日、コーヒーを片手に話をしていた際、常駐代表からアフガニスタンで間もなく実施される選挙の準備について聞かされました。そして私のこれまでの経験を考えると、その業務は私にとって最適かもしれないと話してくれました。当時、担当していた報告システムはすでに軌道に乗っていました。そこで私は再び新たな役割へと踏み出すことを決意し、ガバナンス・ユニットの立ち上げに加わりました。それは、この国の民主化の歴史において最も重要な節目となる、2004年の大統領選挙、そして2005年の議会選挙を成功へと導くための大きな挑戦でした。

当初は短期的な仕事としてスタートしましたが、やがて能力構築、汚職防止、議会支援の開始、市民社会のエンパワーメントなど、多岐にわたるガバナンス強化に関する取り組みへと拡大していきました。その業務は非常に意義深いものでしたが、同時に息つく暇もないほど過酷なものでもありました。担当する事業規模があまりに膨大になったため、最終的にはガバナンス・チームを二つのユニットに分けざるを得なくなりました。しかし、チームを分けた後も、なおその業務スピードは心身を消耗させるものでした。激しい胃の痛み、慢性的な疲労感、そして燃え尽き症候群の兆しなどが重なり、自分自身の限界を悟り、苦渋の決断を下しました。退職したのです。

周囲には「デトックス」に行ってくると伝え、インド・カルナータカ州のアーユルヴェーダ療養所で静養に入りました。しかし開始からわずか1週間後、UNDP本部から連絡が入りました。UNDPインド事務所常駐副代表代行として、短期任務に就いてほしいという依頼でした。私はデトックスを最後まで終えるため、あと2週間待ってほしいと伝え、その後、その要請を受け入れました。あの時の休息こそが、私を救ってくれました。休息は決して贅沢ではなく、「レジリエンス(しなやかな強さ)」を保つには、回復のための時間が必要でした。「静止」の時間があったからこそ、私は次に訪れる挑戦に備えることができたのです。

東ティモールへの帰還、そしてハルツームでの新たな章

私にとって、東ティモールは常に特別な場所でした。

インドでの短期任務中、UNDP東ティモール事務所常駐副代表に応募し、念願のポストを得ることができました。しかし、着任早々、大きな試練に見舞われました。大規模なドナー会議の運営に奔走する中、知らぬ間に深刻なデング熱に侵されていたのです。熱帯地域での高熱を決して軽視してはならないことを、私は身をもって学びました。会議終了後、私は担架に乗せられ、オーストラリアのダーウィンへと緊急搬送されました。当時、スーダンのハルツームに駐在していた夫が私の元にたどり着くまでには、4日間要しました。その時、私たちはあまりにも離れて暮らしているという現実に直面し、それは私にとって大きな転換点となりました。

1年後、私は家族のためにハルツームでのポストを受け入れました。国連平和維持活動 の一つである国連スーダンミッション(UNMIS)に従事し、UNDPを通じて北スーダンにおける国連ハイブリッド平和維持活動内で、国連常駐調整官事務所のリードを任されたのです。緊迫した環境下で、ドナーや現地当局、コミュニティ間の橋渡しを行い、調整チームの強化や資金動員に尽力しました。任務は大変なことも多かったですが、この地での2年間の生活は、私に人生最大の贈り物を与えてくれました。私は、双子の母となったのです。

現在は閉鎖されたUNMIS元事務総長副特別代表であり、親愛なる同僚でもあるアミーラ・ハク氏に双子を紹介した際の様子。

Photo: Hiroko Massey

母として:仕事と家庭とのバランスを模索

危機対応に追われる仕事を長年続けてきた私は、まったく異なる種類の課題に直面することになりました。双子の子どもを育てながら、人生のバランスを見つめ直すことになったのです。これまで経験した中で、最も困難な「仕事」だったと言っても過言ではありません。当時、私は子どもたちを連れてスーダンに赴任していました。私がオフィスに向かおうとすると、まるで私が二度と戻らないかのように、二人の子どもが泣きじゃくりながらこちらを見つめてきました。環境の変化に慣れるため、母に3か月間来てもらいましたが、それでも感情が溢れてしまう日々が続きました。その中で、自分にとって何が最も大切なのかが、はっきりと見えてきたのです。

私は国連を再び退職する決断をし、まず3年間を東京で過ごし、その後、山梨県の自然豊かな地域へと移り住みました。山や川に囲まれ、時には猿も姿を現し、決してからかってはいけないよと繰り返し子どもに言い聞かせたものです。このような環境で、子どもたちはのびのびと成長しました。交通量や近所を気にすることなく大きな声で歌い、大都市での生活とはまったく異なる、シンプルな暮らしの喜びを再発見しました。6年間、私は「今ここにいること」を大切にしました。子どもたちのために、家族のために、そして自分自身のために。双子の子どもたちは、田舎に来てからの私のことを「ここではママは優しいね」とまで言ってくれました。私はストレスを感じていなかったのです。それでも、やがて私は、何か物足りなさを感じるようになりました。

Two schoolgirls in navy uniforms pose with two women outside a school.

東京の幼稚園の入口にて

Photo: Hiroko Massey

 

私は近所の一流高校で、非常勤の事務職として働き始めました。教育の現場で働くことは、ある意味で「開発」にも通じるものがありました。人材を育てる、人間資本の開発です。その後、大学でのフルタイムの職に移り、混乱していた事務体制を一から再構築する役割を任されました。やがて夫も同じ大学に加わり、私たちは2年間、家族の時間をたっぷり確保できる理想的な9時から5時までの生活リズムを送ることができました。あれは、これまでで最高の選択でした。しかし、次第に私は落ち着かない気持ちを抱くようになりました。双子が10歳になったとき、私は「また開発の仕事に戻ってもいい?」と尋ねました。すると子どもたちは、「ママ、それはいいことだよ。やりなよ」と背中を押してくれました。こうして私は、再び開発の現場へ戻ることを決意しました。

アフガニスタンへの復帰

2021年、私は14年ぶりにアフガニスタンに戻りました。健康上の理由で以前に退職していたこともあり、再び戻れるとは思ってもいませんでした。この新しい役割について両親に伝えたとき、反応は即座でした。「えっ?本当に?正気なの?」今回私が任命されたのは、アフガニスタン法秩序信託基金(LOTFA)のファンドマネージャーという役職でした。

Group of professionals seated around a table in a wood-paneled office, with flags on the table.

タリバン政権成立前、元アフガニスタン内務大臣とアブダラ・アル・ダルダリ UNDPアフガニスタン常駐代表(当時)の会合にて

Photo: UNDP Afghanistan

現地に到着してみると、チームは名ばかりの存在で、メンバーは各地に分散し、明確な方針もないまま業務を行っていました。引き継ぎは一切なく、ドナーや政府からの信頼もほとんど失われている状態でした。私は着任から2か月の間に、新たなチーム体制を構築し、ドナーの信頼を回復し、SRSG(事務総長特別代表)が議長を務める極めて重要なサミットを開催しました。しかし、2021年8月、すべてが一変しました。カブールが陥落したのです。航空便は停止されましたが、私は同じ便で退避することになっていたインド大使のおかげもあり、結果的に国外へ出る最後の民間便で脱出することができました。

国外からの指示により、私は人道的ニーズへの対応に専念することになりました。LOTFAのすべての支出を凍結し、進行中のプロジェクトを終了させる一方で、記録的なスピードで、新たな基金「アフガニスタン特別信託基金(STFA)」を立ち上げました。わずか2か月足らずで、約1億ドルの資金を動員し、北部および南部地域における国連の共同プログラム支援のために拠出しました。7か月以内に17の国連機関がSTFAに参加し、スウェーデンが初代共同議長を務めました。2025年末時点で、基金の累計拠出額は2億7,500万米ドルに達しています。

現在、私たちの取り組みはすべて、「アフガニスタンに関する国連戦略枠組み(UNSFA)」に沿って実施されています。極めて制約の多い環境下で成果を出すためには、組織を超えた緊密な連携が不可欠です。この約5年間は、私にとって非常に濃密な時間でした。

アフガニスタンで働くことは、今なお容易ではありません。人道支援と開発の両分野で活動上の制約は大きく、資金不足も深刻です。さらに、人権状況への懸念が将来への不透明感を強めています。とりわけ女性の社会参加に対する制限は依然として続いています。私のチームでも、国内出身の女性職員2名は在宅勤務のみが認められている状況です。こうした制約は強い心理的負担を生み、「仕事を失うのではないか」といった不安が常につきまといます。それでも、人々のしなやかな強さは失われていません。

忘れられないエピソードがあります。イランから帰還したある若い女性が、8年前、夢とわずか100ドルだけを手に事業を始め、10人の女性を雇用しました。得た収益をすべて再投資し、原材料から製品まで一貫して手がけるカーペット製造事業を築き上げ、現在では35万ドル以上の価値を持つ企業へと成長させました。今では、主に国内避難民である数百人の女性を雇用しています。彼女のような存在こそが、私がこの仕事を続ける理由です。評価や称賛のためではなく、変化を生み出すために。彼女が示した可能性は、決して例外的なものではなく、十分な支援があれば、他の人々もきっと同じ道を切り拓けると信じています。

Three people indoors before rugs: left in green hijab, center with glasses, right in black abaya.

スウェーデン国際開発協力庁(SIDA)代表団とともに、アフガニスタンのカーペット工場を視察

Photo: UNDP Afghanistan

今でこそ、私はファンド・マネージャーとして知られているかもしれませんが、実のところ、この役割に就いたのはこれが初めてでした。最初からすべての答えを持っていたわけではありません。そして、それでよかったのです。私は現場に立ち、好奇心を持ち続け、実践を通じて学びました。

新しいことに挑戦する人に、私がいつも伝えている言葉があります。それは、「始める勇気を持つこと」「学び続ける好奇心を失わないこと」そして「機会が訪れたら、思い切って『はい』と言うこと」。目の前の仕事に向き合い、歩んでいる道のりを信じ、流れをつくっていけば、きっとうまくいくはずです。

 

※2026年1月現在、マッセイさんはUNDPインドにおいて、インフラ・レジリエンス・アクセラレーター基金(IRAF)ファンドマネジメントユニット長としての新たな任務への準備を進めています。